人間でいることと生牡蠣

 食べたい食べたいと話していた生牡蠣を奢ってもらえることになり、でも身体が動かないし、奢ってもらったらもらったで後悔を覚えて、数日は身体が動かなくなるんじゃないかという不安を帯びながら、それでも外に出れば何かが変わるんじゃないかとノソノソと数日ぶりのシャワーを浴びた。外に出るといつの間にか夏が過ぎていて、それどころか秋も終わりかけていることに気が付く。外気に触れているうちに、人間でいるのは大変なことなんだ、と思った。

 10月下旬、いつものように身体が動かせずベッドに横たわっていると、ドンドンという重低音とかすかな振えを感じた。いつまで経っても消えず、重い身体はさらに重くなり、次第に「おい、なにをしているんだ。はやくしろ」と誰かに攻められているような気持ちになってきた。あとになってあの音は、少し離れた土地の大きな花火大会の音だったのだと知った。きっと同じようにつらい思いをした人が、このエリアにはたくさんいたんだろう。

 いつも生牡蠣は、翌日にはお腹が痛くなるんじゃないかと、恐る恐る食べる。生牡蠣の盛り合わせをふたり分。ひとつめの生牡蠣をひとくちですすったとき、特段感動を覚えなかった。せっかく奢ってもらえたのに、時間もお金も使ってもらったのに、僕が食べたいといったのに、「こんなものだったっけ」と少し残念に感じていた。申し訳なかった。それでも目を見開いて、美味しそうに幸せそうにした。こんなの間違っているといまでも思う。

  人と会ったとき、何を話せばいいのかがわからない。個人的なことを話せば、すぐに落ち込んでいくような、暗い話しかできない。誰かを楽しませられる人や、誰かと楽しめる人はすごいと思う。その時は落ち込まない日もあるけれど、帰宅途中には、言わなくてもいいことを言ってしまった、言い方が悪かったと落ち込んでしまう。そんな話をしたら「帰ってからも楽しかったと思える人もいる」と言われた。

 みんな僕と同じなのだとしたら、それでも誰かと会って話そうとすることに尊敬を覚える。しんどさに蓋をして、楽しい話をしているのだから。蓋をするしんどさをひとりで背負っているのだから。帰宅中に、帰宅後の長い夜に、ひとりでそのしんどさを背負えるのだから。誰だって誰かの暗く落ち込む話なんて聞きたくないだろう。それをしないように振る舞えているのだから。