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にく

歩き疲れて入ったカフェで、想像していたよりふた回りも大きなイチゴのショートケーキが出てきた。あまりの大きさに笑っていたら、左隣にいた中年の女性も吹き出していた。右隣では30代半ばくらいのカップルが別れ話。わざわざこの席に案内しなくてもいいじゃないか、と店員を恨んだ。とても申し訳ない気持ちになった。

昔から綺麗に食事ができない。焼き魚を食べれば皿がぐちゃぐちゃになるし、ケーキを食べれば倒してしまう。だから今日は慎重に食べた。初めは先端から切り崩し、1段目と2段目に挟まるイチゴを無理やり取り出さず、上から順に食べ進める。バランスが崩れたら、食べる位置を変える。皿を汚さなかった。

右隣では堂々巡りが続いていた。細々とした、沈黙の長い会話。内容は聞こえない。うんざりした女性の顔と、表情の見えない男性。話し合えば解決できる問題と、解決できない、ただ後腐れしない解消を目指すしかない問題がある。そのどちらにも向かってないように見られた。コートを置いたまま女性が席を立ち、時間を置いて男性は会計を済ましに行った。トイレにしては長い。会計を済ませようとしたところで女性が戻ってきた。後のことはわからない。

難波にはこの1年で10回は訪れている。少しずつ土地勘もついてきた。ブラブラと歩き回りながら夕食の店を探す。贅沢しすぎないようにしようと話していたのに、結局着いたのは少し背伸びしたそれなりの焼肉店だった。残りの人生が60年だとしたら、あと6万5000回しか食事できないんだよ。だったらいいものを食べないと。6万5000回。随分と多い。上品な焼肉を一枚一枚。牛タン、ロース、ハラミ。それから石焼ビビンバとわかめスープを小サイズ。家族の話をした。

難波から関西空港まで南海で1時間程度だ。会話よりも睡眠をとることになる。スウェットによだれを垂らして目が覚めた。一筋と三つの点が染み付いていた。

帰りのチケットを発券して、いつもの喫茶店に入る。アイスコーヒーとホットココア。家族の話が続く。いつからか覚えるようになっていた緊張感が、残りの10分のところで、はっきりと目の前に現れた。これからどうするか。お互い29になる。間を埋めるだけの、わかりきったことをただなぞる返答を繰り返す。覚悟のカードを突きつけるゲーム。空のコップを片付けて、時間ギリギリに保安検査場へ飛び込んだ。

 

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祖母が亡くなった。

 11月末、仕事中に祖母の容態が悪化していると母から連絡があり、急遽帰省することになった。祖父は僕が小学生のときに亡くなっている。祖母はそれから20年近く群馬に一人で住んでいたのだけれど、数年前に実家の近くにある老人ホームに引っ越した。老人ホームを選んでいるときに一度会ったきりで、最後がいつだったか記憶にない。覚えている最後の記憶は、突然老人ホームにいる祖母から支離滅裂な電話がかかってきたことだ。同じ施設で働いているのに、母が滅多にこないという愚痴だった。母は施設から遠い印刷工場でパートをしている。

 週末に兄とレンタカーで実家に帰る。帰路の2時間は、まともな会話をしたことがない兄との時間を潰すために、iPhoneから音楽を流したり通り過ぎる車のナンバープレートや看板をみて韻を踏む練習をしていた。熊谷なら、うあああ。トヨペットなら、おおえっお。アバウトなら、ああうお。川越なら、ああおえ。

 その日は、いとこ家族と焼肉を食べて寝た。

 翌日、家族とホスピスに行く。山の中にある、施設全体がピンクの新興宗教の施設のようなホスピスだった。増設を重ねた建物独特の、入り組んだ道を歩いて病室に辿り着くと、頬のこけた祖母がベッドに横たわっていた。母が起こすと、白目のない真っ黒なくもった、起き抜けのような目をこちらに向けたように見えた。母が、ほら来てくれたよ、と僕らの名前を繰り返す。酸素マスクをつけた祖母の口が金魚のようにパクパクと動く。しつこく呼びかける母に、ああうお、ああっうおと繰り返す。昨日はもう少し意識がはっきりしていたのだけど、と申し訳なそうにいいながら母は繰り返し呼びかける。もういいよ、とは言えなかった。ああうお、ああうお。昨日は話もできたんだけどね、と再び申し訳なさそう母がいう。僕には何をいっているのかわかっていた。なぜか、わかるよ、とは言えなかった。パクパクと動く口とともにずれる酸素マスクを母がなおす。母だけが呼びかけ、父も僕も黙る中で、兄が、またくるね、といった。どうして、と思いながら僕も、またね、といって病室を出た。帰りの車で、白菜畑をみて、大きい白菜だね、くれないかな、といったあとに、昨日はもう少し意識があったんだけどね、と母がまたいった。実家についてしばらく休んでから、兄と東京に戻った。

 4、5日後、母から、お祖母ちゃん頑張ってくれていますとメールが届いた。朝を除けば深夜でも起きてるから、何かあればいつでも連絡してと返したその翌日の夜に祖母は亡くなった。享年も名前もわからない。ボケ始めた祖母との電話と、わかるよと伝えようとした最後の会話は覚えている。

 

猿島に行ってきた

 ブログを書きましょう、と頻度は減ったけれどあいかわらずいい続けていて、そのくせ自分はもうすっかり書かずにいるのは説得力がないだろうと、もう何年も、そうか、継続してブログを書かなくなって、7年以上も経っていることに気づいて、愕然としている。そもそも、このセリフは人のものを盗んだのであって、あたかも自分の言葉であるかのように言っているのもどうなのだろうと思うところは当然ある。自分の言葉なんてものがあるのかといえばおそらくほとんどないし、ということは盗んだというのはおかしくて、それにその思いは嘘偽りないのだから仕方がない。だがしかし。ブログを書いて欲しいというのは、きっとどこかに読む人が必ずいて、それは僕かもしれないし、違う人かもしれないのだけど、でもきっと誰かが読んでいて、書かれる言葉はあなたの言葉である。それはあなたです!可能性のひとつである僕は、ブログを昔のように読んでいるかというと、読んでいない。ということは嘘偽りない、と書くことに説得力がない。どうしてこんなに執着するのかわからない。単なる口癖なのか。

 6年以上前に1度あった知人と、長らくお世話になっている知人と、3人で猿島に行った。どちらもインターネットを介した知り合いだ。ふたりとも仕事でも関わっている。

 振り返れば。周りを見渡せば。インターネットで知り合った人ばかりだ。いちいち言葉にする程度には、インターネットでの交流を、何か別のものかのように考えているところが僕にもあるようだ。インターネットはリアルです。僕はインターネットで出会う方が得意でした。仕事も友達も趣味も恋人も、インターネットでつながりました。異質で特別な何か別のものということではなく、単に思い入れが強いものというだけか。

 不思議だった。6年以上前に初めて会って、一度、渋谷で数時間ほどお茶をして、個人的な話もほとんどしなかった人と、再会して、仕事を一緒にしていて、さらに猿島にいる。終始ビールを飲んで、カラオケにも行った。最後に歌ったのはtahiti80のheartbeat。いい曲だけど思い入れはない。うっすらと、みんな、やけっぱちなところがあったような気がする。楽しいと思った。カラオケのあと、風が吹き荒れる寒空の中で海まで歩いて行ったのは、どう考えても余計だったのだけど、たぶん必要だった。

 書くことで求めていたものが、なくなったのだと思っている。あのときはいまよりも自分を認めてくれる人が欲しかったし、寂しかったし、頭良くて才能があってセンスも良いと、わかってくれる人がどこかにいると思いたかったし、適当に書き散らした言葉が求められているように感じられるのも気持ち良かった。知り合いたかった。今はもう、身の丈がわかってきている。余計なことは言いたくない。できるだけ黙っていたい。言いたいことも別にそんなにない。お金も時間もないのに、いろんなものがまとわりついてる。それが僕を食わせている。それに抗いたい気持ちもない。そんなに居心地が悪いわけでもなければ、やっていけないということもない。

 みんな書かなくなったな。どうしてだろう。僕は本当に書いて欲しいと思っているのだろうか。喫煙者が、禁煙した人間にタバコをすすめるみたいなものなのかもしれない。共犯になりましょうよ。僕がタバコを吸い続けられるように。それでじゃあ僕がどうして書きたいと思っているのかを考え始めたら、ここで書いてきたことがどうも嘘のように思われてきた。だからやっぱり、書くのはやめた方がいいのかもしれない。

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